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自分で『考える』というのか?
ある放送会社Aの役員様と打合せをしていた時、話しが同社の次期中期経営計画に及んだ。「ちゃんと市場分析して、強み弱みを分析したと言うのだけど。結局、他社と同じような計画しか出て来ないんだ。」という話だった。経営企画の人達からすると、きちんとお作法に則って【考えた】、らしいのだが。
氾濫する「情報」に隷属されてはいないか
お作法は「情報」だ。かっては、一部のコンサルティング・ファームの人間しか知り得なかったフレームワークという「情報」だった。それを使えば、かなり整ったものができるし、やった感もでる(その「情報」も、クライアント企業から学んだものが大半らしい)。
今や、そういった「情報」が容易に手に入れられるようになってしまった。逆に、盲目的に「情報」の言いなりになってはいないだろうかと危惧する。
例えば、SWOT分析は、コア事業周辺、延長戦上で失敗しないように戦略を評価するためのツールだ。A社の場合、コア事業に関する機会-脅威は他社と全く同じとなってしまう。さらに規制業界なので、強み-弱みも多少の差こそあれ、それほど大きくはない。そうなると、取り得る経営計画も似通ってきてしまう。これらの【考える】は、『考える』とは言い辛い、下請け作業に過ぎない。
「周りの声」に隷属されていないか
考え方に留まらず、思考停止で「情報」の言いなりになってはいないだろうか? 身近なところでは、例えば、大学選びでの偏差値がある。偏差値は、行きたい大学・学部の合否の可能性を見たり、勉強の励みにしたりするものだった。今では、偏差値の高い大学=(自分にとって)良い大学といわんばかりに、上から行けそうなところに当たっている。
会社でも、企業経営者が株主からの声や同業者の動向、一般社員は社内規則や上司の意向の言いなりになってはないだろうか。
『考える』、それは自由になるため
自分達で『考えた』ことでなければ、覚悟もできないし、責任もとりたくない。だから、失敗しないよう、怒られないようにすることしかしない。また、責任逃れの言い訳が妙に上手になってきてしまう。骨太の『考える』があれば、不必要な「情報」や「周りの声」に惑わされにくい。やるべきことに邁進できる。
ゼロから考え、判断し、行動するのは確かに大変だ。だから、私たちは、目の前の、そのジョブを効率的に終わらすために、何か拠り所を探す。ただ、今はその拠り所が、数多く容易に入手出来るようになってしまった。あるいは会社が与えてくれる。自分達で『考える』は中々容易ではない。考える『葦』であることが、難しくなっている。
そんな時代だから、人間らしい、自分たちで『考える』ことと、そのためのトレーニングや文化醸成の重要性を、あえて再認識する必要がある。
以上
参考図書:梶谷真司,「考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門」,幻冬舎新書
田坂広志「知性を磨く― 「スーパージェネラリスト」の時代」,光文社新書
養老孟司,「バカの壁」,新潮新書